◎引き寄せを最適化して効率よく叶える◎

引き寄せ難民15年。悩みながらもチカラワザであれこれ叶えてきましたが、脳科学×心理学×量子力学を使ったら60日で現実がバシッと整いました!

実現報告と自己観察さんまとめ

 

こんにちは~

久しぶりに更新です。

 

最近ゆっくり過ごせているので

潜在意識系のまとめをのんびりと読み込んでいます。

 

あ、先日、今年の本願がひとつ叶いました。

予想より速く事態が整い、無事にクリアできました!

でも、クリアしたらしたでまた次の願望が沸いてくるあたりエゴですねw

 

女性の頭の花

 

今日はエゴについて考えたことを書きたいと思います!

 

 わたしの叶える願うループ

願望が次から次にわいてきて不足にとらわれがちになることは

よくあると思います。

まさにわたしがそうでした。

色々叶うのだけれど、叶ったらまた次の不足がわいてきて、

かなえて、また願って・・・の繰り返し!

 

どうしたもんかなぁということで

今回達人まとめを読み直しました。

 

わたしは、大体のことはかなえられるのだけれど

叶えて願うのループからもう抜け出したい

そして、叶う精度を高めたいと思っていました。

 

今回参考にしたのは自己観察さんまとめ。

 

以下抜粋ですが、自分のためのメモ用の抜粋なので

所々レスが飛んでいますがすみません。

 

自己観察さんまとめ

 

大海にはもともと「意思」はありません。
「空」とか「ゼロ」とか「無」とかで表現されますが、ただ在るだけの純粋な意識体です。
空気みたいなものです。

あまりエゴが活発でないとき、例えば自然に触れてるときとかリラックスしてるとき、
自分の心の中に静かな空間(感覚)が広がっていることを、なんとなく感じることができるのでは
ないかと思いますが、その自分の内的な意識空間が、肉体を媒体としてこの物質空間に
そのまま広がっています。自分の体が、意識と物質を転換する装置です。

私という肉体を通して、本来は静かで空気みたいにニュートラルな意識体である空間を
見てるだけなんですが、様々なフィルターを通して見ているので、現実にいろいろ
起きてるように見えます。

つまり、目の前に広がってる空間、視界に入るすべてのものは、
全部フィルターを通したあなたの意識体です。

「私=世界」です。

肉体が媒体となって、観念を振動として空気中に伝え、その振動が電気信号として眼球に伝わり、
脳に伝わり、そこで作り出した3D映像を現実として認識しています。
物を触って感触を確かめられるのも、ただ脳でそう処理されてるだけです。

なので、自分の観念以外に自分の願望や意思を妨げているものはありません。
「世界=私の意識が物質化したもの」なので、「願望」という概念自体も本当はありません。

ただ「○○が欲しい」というフィルターをつけていながら、たくさんの矛盾するフィルターを
つけてるだけです。「大海全体が自分」である「本当の自分」として生きるとき、
それらの矛盾したフィルターは無効になります。

それらのフィルターは「ない」ことを前提にしないと維持できないものなので、
自分が望むものがすべてあることが実感できると消えてしまうのです。

これは自然に気がつかないうちにそうなる人もいると思うし、
突然世界の見方が変わったことがわかる人もいるのではないかと思います。

自分の世界にあるものが本当はすべて自分のものであるのに、
「それは自分のものではない」「他の誰かのものだ」というフィルターを通して
みることによって、それは他人の所有物として世界に登場することになります。

本当の自分を認識できるようになっていくと、それらの制限フィルターが段々少なくなっていって、
自分のものであることがわかるようになってくるので、望むものが手に入りやすくなったりするのです。

なので、「本当の自分」と今の自分を違う存在のように思って「どうやって願いを叶えて貰うか」
とか、「別の領域に立ったときに願望をちゃんと意図しなきゃ」とか考える必要はないのです。
本当の自分は、今の自分(「ない」ことを前提にして願望を巡らせている自分)よりも包括的に
物事を把握しているのです。

実際には、昨日までなかったものが今日突然出現したというような、前後の繋がりのない事態が
起こることは殆どないと思いますが、(でも可能性はあります)自分のものになっていくプロセスも、
自分や周りの人にとって自然で納得いく方法で全部整えてくれます。

そしてそれは限られた範囲のことしか想像できないエゴ(思考)では予測できません。
エゴは自分の経験や他人から聞いた話しかデータがないので、それ以上どこにも探すことが
できなくてぐるぐる停滞するしかありません。

本当の自分はそんなとこに興味ないのです。
本当の自分は、もっと自分の壮大さに気づいて知覚できる範囲を
拡大していきたいのだと思います。そのための現実です。

たぶん続くと思いますが、またにします。

別の領域では「無でありすべて」と書きました。
「ない」と同時に「ある」が矛盾なく存在します。
すべての潜在的可能性が、生じることも滅することもなく遍在しています。
「欲しい(ない)」と思ったと同時に「ある」ので「願望=実現」です。

そしてこの現象の世界では「ない」と「ある」は対立します。
わかりにくい説明ですが、


まずひとつの点が存在する(ないと同時にある)

その点を引き伸ばして一本の線が出来たとき、「ない」と「ある」の相対する極が生まれた


「ない」と同時に「ある」が成立しないので、二極を結ぶ線のプロセス(「ない」→「ある」)になります。
「ある」を体験するには、「ない」と認定することで「手に入れる」プロセスを経る必要があります。
ということは「ある」ことが前提でないと、「ない」という認定自体が出来ないことになります。

私たちが現状を見て「ない」と思うのは、「ある」が真実だからその真実を否定している「ない」
を認識出来るのであって、本当に存在しないものは、「ない」という自覚すら出来ないのです。

現実世界は、別の領域での自分の内部表現が、肉体を通して目の前にそのまま投影されて
展開されているのですが、遍在する可能性の中から欲しいものや状況を形作ったとき、
(こういうものが欲しいと思ったとき)目の前の空間にそれは実際にあるはずなのです。

690 :もぎりの名無しさん:2011/03/16(水) 15:47:38 id:psg5Ebes0

具体的に書いてみます。
何かを欲したとき例えば「優しくて2~3歳上のイケメン彼氏が欲しい」みたいな、実際には存在を
確認できていないものを欲する場合と、既に存在はするけれど他人の所有物だったり、お店で
売ってはいるけれど金額的に手に入れるのが難しいと感じるものだったり、供給数が少なすぎて
手に入れることが困難なように思えるものだったり・・・といろんなケースがあると思います。

これを「ないと同時にある」という話からすると、どんな願望であれ「欲しい」という意識が私の中で
生まれたとき、既にそれらは実現されている(願望も実現も投影されている)ということです。

実際に優しくて2~3歳上のイケメン彼氏と付き合ってるし、
欲しいと思った物や人、状況はすべて自分のものになっています。

それらの場合の「まだ現れていない」「他人の所有物だ」「お金がないので手に入れられない」
「数が少ないので手に入れるのは困難」などの、それが実現していないように見える理由はすべて、
「既にある」ものを「ない」と認定するために幻想を見ているだけということになります。

チケット7章でのパンの話を思い出して欲しいんですが、
既に自分のパンとして目の前にあるのに、「自分のものではない」と認定して
「手に入れる」ために何かをしなくてはいけないと思い込んで現実を見ているので、
「他人のもの」「手に入れるのが困難」な現象として目の前に展開しているのです。

ではこの「ない」という認定をどうすればいいのかということになるんですが、
この現象世界ではこの「既にある」が瞬時に自分のものとして起こることは通常ほとんどありません。

この現実世界で生きるための基本ルールとして選んでるフィルターがあります。
肉体があって椅子に座って机やキーボードを触れたり画面の文字が読めているのも、
そういった地球的な物理法則を採用しているから出来ることですが、
実際にはただの電気信号をそのように脳で処理しているだけのことです。

このフィルターは自己防衛本能に大きくかかわっているので、
「既にある」が「ない」ようにしか見えないのは当然のことです。

例えば「ケーキが食べたい」と思った瞬間、空間からケーキが出現したり、
見知らぬ人からプレゼントされたりしたとして、すんなり受け取ることは難しいと思うし、
出所不明なケーキを口に入れるのも勇気がいると思います。

ちょっと思いついただけのことが時系列を無視してすぐに実現すると、
人間として生きるうえでかなり支障があると思います。

なので欲しいものが出現したときに、空中から突然物質化するのを目撃することは殆どないと思います。
たいていは時間や所有という概念を使って、観念が受け入れやすい自然な形で現れます。

「自分のものではなかったが手にはいった」とか「いつの間にか自分のものになっていた」という形です。

691 :もぎりの名無しさん:2011/03/16(水) 15:48:10 id:psg5Ebes0

「既にある」を実感できるようになると、「自分のものではない」として見えてる現実が、
本当は自分のものであるけれど、現実という2元世界での便宜上他人のものなり
入手困難なものとして現れてるだけだということがわかっているので、
渇望するということが出来なくなります。

当然ですが、他人のものを勝手に自分のものだと思い込んで満足しているだけだとしたら、
思い込みの激しいイタイ人なだけですw

そうではなく、実際に客観的事実として自分のものになるということです。

ただ、自分のものになるまでに、2元世界の性質上必要なプロセスがあるけれど、
放っておけば自分のものとしてやってくるのが当たり前なので、
何もする必要がないことがわかっているのです。

私たちは今まで、この現象世界しか認識できていなかったので、
「便宜上、自分のものではない状況」として現れているだけなのに、その現象を、
固定された状況で変えることは難しい事実だというように捉えてしまっていて、

「ない」ということがものすごく苦しく感じるし、手に入れるために
いろんなことをしなければならないと思い込んでいます。

そして手に入れようと試行錯誤することで余計に事態をややこしくしてるだけなのです。

認識が変更されると、同じ現象を見ても違うように見えるというのはこういうことです。
「他人のもの」として見える現実が、ただの途中経過に過ぎないと見えるか、
他人から何とかして自分のものにするために何かをしなくてはいけないようにで見えるか
の違いです。

そういう意味で、起きている現実に対してどう捉えるかがこの先に起こることを変えていく
というのは本当のことです。ただそれは、ポジティブに捉えていれば叶わなくても満足できるでしょ
的な精神論ではありません。

それで心底安心して満足できるならいいのですが、そうでない場合は蓋になることもあります。
なので、別の領域に浸って信頼を高めることで認識を変えたほうが楽だし、間違いにくいと思いました。

別の領域が主体のとき、わざわざポジティブを心がけて
思考の調整をしなくても、そのようにしか思えないということです。

「既にある」がわかるまで「既にある」を適用できないという観念を持ってる方が多いと思うんですが、
ある事にこだわりすぎるとないという否定が強くなってしまうので、わからないけど既にあるを
適用してみよう、既にあるとして世の中を見てみよう。

こう思うことで理解しようとする思考のループを切ることができます。
ですので、私の話はそんなものか~・・くらいでいいので、自分自身の別の領域を信頼してみてください。

現象化について、こういう感じかなーと思ってることを書いてみます。
(これが真実ということではなく、あくまで一つの見かたとして書いてます。)

「私」という人間のエネルギーに共振した出来事が引き寄せられてくるとか、
「私」という人間の観念等が、世界に投影されているとか、
それらもある一つの側面からの見かた、表現です。

ここでは「私と世界」は全く切り離されていない
「自分がそのまま世界そのものである」という見かた、それらは瞬間瞬間、
エネルギーの収縮と緩和によって、現れては消えているという見かた、表現をしています。

広大無辺な何も無いフィールド。(実際には空間や場所ではないですが)そこには何も無い。
と同時に、あらゆる可能性を潜在的に含む素粒子が、全く何の方向性も無く中立に遍在しています。
「無」であると同時に「全て」である空間です。

そこでエネルギーの収縮が起きたときに「私」という感覚を持つことが出来ます。(>>404参照)
その「私」というエネルギーの収縮に絡まったエネルギーたちが、「私」の構成要素として、
性格、容姿、思考、感情、記憶、環境などを構成していて、「私はこういう人間でこういう環境に生きている」
という感覚を持つことになります。

例えば「お金」にしてみます。
お金はこの世界で生活のためだけでなく、多くの関心を満たしてくれる、
人生の可能性を物質化したようなものかと思います。
そしてその人生の可能性は、ただ中立に何の方向性も無くフィールドに遍在しています。

毎瞬毎瞬の「私」というエネルギーの収縮が起きたときに、
その「人生の可能性のエネルギー」が絡まったとします。
すると「私」は見せかけの分離(実際には分離していないが、分離したという錯覚をしている)ですから、
人生の可能性も、あらゆる可能性から分離して見えてしまう。
それが「お金が欲しい」「お金が無いから色んな制限がある」という形で「私と世界」に現れます。

で、それらは見せかけの分離として一部分だけしか見ることができないだけだから、
全体性に広がってる全ての可能性のほうに意識を向けましょう、という話なのですね。

気づくことは「私」という収縮を溶解させることです。
絡まってるエネルギーが解放され、広大無辺の全体性の中に溶けることです。
あとは全体性の中で調和が起きて、最適最善に物事が起こってくるでしょう。

440 :幸せな名無しさん:2013/11/24(日) 02:04:38 ID:.4bLqsfY0

そして現象世界とはエネルギーの波動、振動の世界なので、
収縮と緩和、現れては消えるということが瞬間瞬間に起こっています。
一つの瞬間に「私とその世界」という現象が起こり、次の瞬間には「無」のフィールドにさらさらと溶け去る、
この時間が存在する世界で、そんな風に全ての現象が、現れては去っていきます。

それらは瞬間瞬間全く別の現象であって、全ての現象はその瞬間だけで完結して現れ消えていくものです。
ですので、昨日と今日は繋がっていないし、この文章を読み始めたときと今の瞬間も全く繋がってません。
時間の概念があるので繋がって見えるだけなのです。

何かを叶えたいと思うとき、連続して見える世界の中では、今現れている現象を
変える必要があるように見えるので、どうしても今の現実を否定せずにいられなくなります。
ですが、瞬間瞬間一つの現象として完結している現れは、捕まえることも変えることも出来ません。
それはただ現れて消え去るのみ。私たちはそれをどうすることも出来ないし、どうにかする必要もありません。

「変えたい」と思うこと、それは時間が繋がった世界では自然なことですが、
瞬間瞬間が、まったく別の世界の現れであるという世界では、全くの見当違いで不可能なことなのです。

<「私」を含む世界>の現れは、たった今どう在るか、それだけなのです。

とはいっても、タイムラグなどの、即現象化が起こらないことに対して疑いがある人もいるでしょう。

「たった今そうなってるのに、いつ現象化が起こるのか」
現象化にこだわる人はそういう疑いはなかなか消えないでしょう。
それは「早く叶わないと困る」「そうでなければ幸せではない」という思いが根底にあります。

結局は、それがその人の在りかたとして、そのまま世界そのものとして現れています。
で、それもやはりエネルギーなので、気づけば解放されていくんですね。

ですので、変えられないものを変えようとしたり、掴むことの出来ないものを
掴もうとしたりすることは出来ません。それは疲れるだけの不毛なことです。

でも何かを「叶えよう」とすることは、まさにこういう行為です。
嫌なことが起きても、それは現れて消え去るものでしかありません。
それを起点にしてなにかを「叶えよう」とするのではなく、
「たった今どう在るか」の在りかたでしかないのです。


独立して完結しているというのは、「体がどんより重だるい」のは
それはそれとしてただそうあるものだからです。

そうであるものを変えることは出来ません。
それはただ現れて去っていくだけです。
それは、全てが既にある中で、完結して存在した
「体がどんより重だるい世界」にピントを合わせているのです。

そして「体調いい」と思い浮かべることができるのは、相対的な思考があるからです。
物事を相対的に関連付けているからです。

意識のあり方がそのまま世界に現れると書きましたが、
意識であるものが「気づいてるもの」がそのまま世界に表れています。
意識の本質として、それは常に気づいていて、気づいていないことが出来ません。
たった今、この瞬間にすべてに気づいています。

ですがエゴは「今」にあることが出来ません。
何かに「なろうとする」或いは「現状を否定する」「何かのためいつかのためにこれをする」とか。
たった今すべてがあるのに、「今ではないもの」を求めてるんです。
当然エゴでは「今あるもの」を曇りなく見ることはできないでしょう。

それは目の前に展開する出来事や、五感で感じてるものに「反応」する形では出来ないことです。
反応では「今の瞬間」を逃しています。

「今の瞬間」にいられるのは、主観性(存在性・気づき)だけです。

欲しい」と思うとき、自分と世界(その欲しい対象)は分離してるってこと。
本来自分以外存在しないなら、分離するとかありえないからそれは幻想ってこと。
だから「ない」から「欲しい」とか「叶える」とか「手に入れる」とかやってるのは
全部幻想、錯覚ですよって話。

思考っていうのは「私が○○をする」という形態を見ればわかるけど、「私」と「対象」が存在するよね。
つまり分離がデフォ。「私」も「○○」も全部自分なのに「する」とかできない。
できないものを「する」とか言ってる虚構。錯覚。

自分が世界そのものなんだから、欲しがってれば「ない世界」で欲しがることになるし
貧乏だと思ってればで貧乏な生活を、満たされてれば満たされた生活を送るでしょう。
「理解したい」とすれば「理解したいと思うような難題」が次々でてくる。
何とかしようと思えば思うほど、何とかしなくちゃいけない世界になる。
思考では望めば望むほど遠ざかるんですよ。

欲しがらなきゃいいんですよ。欲しがるから「ない」を見てるだけ。
だから思考に気づきましょうっていってるんですよ。どういう認識から生まれた思考なのかです。

「お金が欲しい」という思考に気づいた。
「お金がない」と認識してるから欲しいという思考が出てきたんです。
その認識どおりに世界は展開してるでしょう?
世界(自分)は「叶える力?仕組み?」そのものですよ。

既にあるとか、全部自分とかどころじゃない。
そこに気づけば今までのように当たり前に欲しがることが出来なくなる。単純でしょ。

これ自分で気づけないと「裕福だと思いたいけど思えません」とかなりますからね。
これは信じるとかそう思いたいとか、そんな話じゃないんです。
思考は認識から生じます。認識は自分で気づけないと変わりません。
思考であれこれ考えたって認識は変わりませんよ。

今までのように「ないから欲しいんだ」という思考をそのまま信じ続けるか、
その「欲しい」という思考が「ない世界」を展開させてると気づくか(そういう見方をしてみるか)
ってことですね。

 

叶えたいということの意味

まず、かなえようとしていることじたいがエゴなんですね。

ない前提のフィルターでものごとを見ているので、

その内面が現象化しています。

 

よく、想像できることは何でも実現できる!という言葉をききますが

想像できる=この世界にある、

世界は自分の内面の投影なので、

想像できたものはすでに自分のものとしてある

と言う風に考えることが出来ます。

 

ここで、世界は内面 の投影というのが大前提です。

 

なので、かなえたいと思った瞬間に

すでにそれは自分のもの、自分として存在しているのです。

エゴは「ない」と思ってあれこれ手段を考えたり思考したり騒ぎますが

その動きは、既にある安心や幸せを否定するためのものです。

 

じゃぁエゴってなんのためにあるんだろうと思うと、

現象化を味わうためにあるのかな~と思います。

モノとして現象を見たりふれたり自分のものになった!と思ってよろこんだり。

現象化を味わうためのツールとでもいうんでしょうかね。

 

本当の自分と言うのはエゴや体、思考ではなくて

たんなる意識(内面)のようなものであり、

それが体というフィルターを通してこの世界を味わえるようになっている仕様なのです。

 

本当の自分はありとあらゆる可能性で、

愛や喜びや幸せの塊なんだけれど、

それを物質として感じるためには、

ないところから叶えるというプロセスを経なければなりません。

だから、ない!かなえたい!と思った時点で

それは叶うためのプロセスを歩みだしたと言うことなので

あとはのんびり見ていればいいということです。

 

エゴはあれしろこれしろと不安をあおってきますが、

わたしたちの体は本当の自分が提供した愛や喜び等の現象化を

味わうためだけに存在しているので

気が向いたとき自然に何かをするまで特になにもしなくて大丈夫です。

ただただ、観察していればそれは起こってきます。

 

今回の実現について

今回の願望実現について考えたことです。

 

本当は年末~年明けあたりに努力して叶えないといけないなと思うことがあり

それのためにモヤモヤしたり、いや大丈夫だと思ったり、

現実的に対処したり調べたり・・・と色々エゴ的に動いてきました。

 

そんなときにふとSNSで、その願望に関する情報が流れてきました。

そのことについて検索していたわけではなく

単なる暇つぶしでSNSを見ていたときにです。

しかも普段わたしはSNSでその願望について検索することはほとんどないので

まさに意図しないところからきっかけが流れ込んできたのでした。

 

しかし、それを実現するには現実的なハードルが。

ですがそれを家族に相談するとまさかという流れで

とてもスムーズに状況が整ったのです。

しかも嬉しいおまけつきで。

 

まとめ

エゴ的に色々頑張っていても結局は本当の自分が

大いなる流れの中でうまく調和させてくれるなと思った出来事でした。

この実現に際して、できるだけ普段から安心感に浸ったり

既にあるを意識するようにはしていました。

 

不安というのは結局エゴが本当の自分の存在を否定するために行っているものです。

不安の根底には絶対的な安心があるのです。

そのことを思い出し、エゴの動きに気づいていると

どんなにそわそわしても最後にはきちんと本当の自分を思い出せます。

 

単に、目の前の現象を観察して味わっている自分に戻ることが

普段の意識の中でとっても大切で

そこの戻ることでエゴ偏重の意識から本来の視点(意識である自分)に

戻れるのだなと気付いた出来事でした。